最高裁の違憲判決 「伝家の宝刀」をなぜ抜かないのか (光文社新書)
最高裁が発足してからの64年間で法令違憲判決は8件しかない。それに対してアメリカ連邦最高裁は1963〜96年で63の法律(連邦法)を無効にし、さらに桁違いに多くの州法等を無効と断じているそうだ。本書は「司法消極主義」と評される日本の最高裁の憲法に対する姿勢を時代背景、そして最高裁長官の事績と結びつけて概観する。
憲法の教科書だと統治機構のうちの司法権、特に違憲審査権のパートで代表的判例が紹介され、そして基本的人権のパートで人権ごとにまた代表的判例が紹介されるので、憲法判例と戦後史の相関がわかりにくいが、本書はそれに的を絞り、さらに憲法訴訟の枠組み・判断手法を解説する。
最高裁の姿勢の変化:まず警察予備隊違憲訴訟、砂川事件、苫米地事件で、付随的違憲審査制をとることを明らかにし、統治行為論を用いて政治と距離を置く。次に労働基本権に対して短期間に軟から硬へスタンスが急変した時代。経済的自由への規制に対する審査基準が模索された時代。97年以降の3件(郵便法事件、在外選挙権事件、国籍法事件)の法令違憲判決に象徴される、立法事実を丁寧にみて目に余る政治の不合理に物申し、救済をはかる時代。大きく4時期に分けられる。そして通奏低音のように繰り返される「1票の格差訴訟」。
付随的違憲審査制を宣言し、統治行為論を採用すること自体が直ちに司法消極主義に結びつくとは思わない。アメリカの憲法訴訟も同じ枠組みだし、三権の中で司法権が突出しないように限界があるのは当然だ。本書は戦後の東西冷戦、激しかった労使紛争、そして国内の左右の対立の中で最高裁が政治を敬遠しすぎたという論調だが、寧ろ最高裁は合憲判決を積極的に出すことで体制を守り、空疎だった憲法に内実を与えたという、インタビューでの棟居教授の見解が、戦後まだ日が浅い時期の最高裁の姿勢を正しく言い当てていると思う。そうして体制・憲法が固まった後に訪れるのが、比較的小さな救済・小さな違憲判決の現在となる。
以上が本書の概要。合憲判決や法令違憲判決ではない違憲判決もある。ただし、違憲審査と政治の関係にフォーカスしているので、違憲判決があまりない分野、すなわち精神的自由に関する判例は、政教分離原則に関するものぐらいで、ほとんどない。実質的違憲判決である法廷メモ訴訟を採り上げないのは、上記憲法訴訟の歴史の流れの中で位置付けにくいためか?
付随的違憲審査制等の難しい言葉も丁寧に解説してある。それでも憲法学に馴染みのない人には敷居の高い議論だと思う。
「1票の格差」訴訟は衆参別に判決を一覧して流れを追いやすい。違憲状態だが合憲という論理もわかる。
あと、ある長官の時代をXXコートと呼ぶにふさわしくないといっても、そもそも長官名+コートという言い方は日本で定着していないと思うのだが。
最高裁の暗闘 少数意見が時代を切り開く (朝日新書)
「あなたは、最高裁の判事の名前を一人でも言えますか?」
そんな感じの問題提起から始まるこの新書。
実際にアンケートをとれば、一人でも言える人は数%だろう。
場所によっては0になる可能性だってある。
そもそも、「比例の原則」とかもちゃんと説明できる人間もそんなに居ない。
この本は、日本人の法への文盲へ対してのある種の提言であると思う。
この新書は、朝日新聞の新紙面であるGLOBEの記者たちの膨大な取材による手記である。
朝日新聞というか朝日新書であり、そこで働く人間の著書なので
かなり偏っていそうな感じはしたのだが、
ある部分においては偏りがあるものの(死刑など)、
ほとんどは記録の記載と、裁判官たちのバックボーンの説明に割かれている。
その理由は読めばわかるが、この本の言いたいことはただ一つ。
「人を裁くのは人である」という事実なのだ。
取材と記録による構成と、新書という形態ゆえに紙面に限りがある影響で、
御世辞にも読みやすい・わかりやすい書ではないといえるが
(やはり記載される法律用語が難しく、裁判官など人同士の事実相関は把握しにくい)
司法判断への一般民参加という事へのモチベーション喚起にはなりうるとは思う。
そしてこの本の表題である「少数意見が時代を切り開く」については、
わかり易い例として、米公正賃金法に名が冠された
リリー・レッドベター女史の事を取り上げている。
(ちなみに、この前の記載などでも日本における少数意見の反映が記されている)
この新書の内容を、ボクなりに簡潔にまとめるのならば、こうなる
・時代を代表する判例には裁判官の考え・信念が大きく反映される
・積み重ねられた過去の判例は、現在の判例と一触即発な関係にある
・裁判とは、最高裁や高裁など裁判官同士による反応・対応の結晶
・実は、次代を切り開くのは、過去の少数意見であり、
判決時に述べた裁判官の言葉から新しい判断が生れることも近年は多い
この本を読むことで、裁判所内部の意思形成過程を、
もっと我々の手の取りやすい所まで・・・とは言わずとも、
分かりやすく伝える必要性があることは感じていただけると思う。
不幸にも、日本にはそのような士も書も少ないという現状も記載されている。
最高裁判所裁判官国民審査など、改善の余地ある仕組みは未だに多い。
(現在までに国民審査によって罷免された裁判官はいない)
人は間違う。
だけどその間違いが未来を作り、人を裁く。
今までは、15人(小法廷なら5人)のジャッジメントがその責を背負ってきた。
裁判員制度の導入により、ボクらもその責を負う時代が来たのだ。
「この15人で大丈夫か?」
「大丈夫だ、問題ない」
本当にそうなのかと心に引っかかれば、それだけでも価値はある。
最高裁回想録 --学者判事の七年半
行政法の大御所(東北大教授)から最高裁判事に転進された藤田宙靖氏の回顧録であるが、実に興味深く、一気に読み通した。少しでも法律をかじった人あるいは日本の司法制度に関心がある人には是非ともご一読をお勧めしたい。
特に最高裁に関し例えば以下のような興味あるいは疑問があれば本書は最適な手がかりとなろう。
1. 組織はどのように機能しているか?(どのように案件をさばいているか?)
2. 裁判官はどのような日常を送っているのか?忙しいのか?
3. 違憲判決を出すのに保守的ともいわれるが、どうなのか?
4. 調査官裁判ともいわれることもあるが、実態は?
5. 最高裁としての判断・判決の方向性に変化は出てくるものなのか?、きっかけは?
6. 判決を下す際の基準・考え方はどのようなものか?裁判官と学者のアプローチの違いはあるのか?
7. 個別意見はどのようにして出てくるのか? 等々
いずれにしても本書を通して、“席の冷める暇の無い”ほど忙しい最高裁判事が黙々とその職務に取り組んでいる姿がよくわかる。
藤田氏は自身の仕事振りについては奥様の表現を借り“始めチョロチョロ中パッパ。残りの三年グウタラぺー”と謙遜されているが、実際は極めて精力的に職務に取り組まれたようである。
そしていくつかの重要判決についての考え方(個人意見も添付されている)のみならず、日常難しい判断を迫られるキーポイント(例えば最高裁にとっての証拠評価の問題)についても同氏の語り口には澱みがなくクリヤーであり、読んでいて全く違和感がない。大変説得力に富み、合理的な方であるとお見受けした。
このような形で裁判官としての仕事を振り返るには守秘義務と説明責任の衝突という難しさがあるようだが、退官後短時間で本書を公刊された英断に敬意を表したい。