最後のイエス
なぜユダヤの議員ヨセフはイエスの遺体を引き取ったのか、公生涯以前のイエスの人生にはなにがあったのか、イエスの墓はなぜ空だったのか。
日本を代表するイエス研究者、佐藤研さん。けれども、この本には論文だけでなく、著者が「なぜ」「なにが」と想像力を働かせたフィクションが収められているところがユニークです。
論文にも佐藤さん独特の考察が見られます。ひとつは、イエスには「きわめて鋭敏な『罪性』意識があった」(p.45)という点です。「自分がこうした『乞食たち』やそれと類似の者たちの群れの中にいないことをどこか疼きとして感じ、社会的・職業的立場ゆえの〈負い目〉を敏感に感取したに違いない」(p.3)。
しかし、イエスは飛躍したと著者は言います。「自らの罪性に沈む自己の存在が実は『神の王国』によって無限に赦され、生かされるものとして把握された」 (p.47)。
ところで、近代のイエス研究者たちは「イエスを人間として扱いながらも、己のイエス像を徹底的に理想化することで、無意識的にではあれ、かつての『神』としてのイエスの後光を補填してきた」(p.126)と佐藤さんは指摘します。
イエスも人間として成長したはずであり、福音書にもそのプロセスがうかがえるが、それを無視して、そこに語られるイエスのあらゆる姿を無批判に良しとしてきのではないか、と言うのです。
たとえば、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(マタイ10:32)などには、威嚇やイエスの自己絶対化がうかがえます。
ところが、ゲツセマネ以降、これが姿を消すのです。「他を威嚇する態度も・・・他者へのあからさまな批判も自己弁明も・・・自己肥大化の言説も脱落している。イエスはただ孤独を貫き、沈黙を守り・・・この『最後のイエス』の姿こそ・・・これまでの自己の姿への訣別ではないか・・・これほどおそろしい『批判』の刃もない」(p.139)。
最後の誘惑 [DVD]
映像はスコセッシ最高のスペクタクル。
そして、苦悩にのたうつ登場人物をデフォー、カイテル、ハーシーら
最高の役者が最高に演じてくれます。
音楽もやっぱりすごい。
P・ガブリエルのサントラはエスニック、アンビエントが好きな人は
必聴もんです。
リズムも旋律も音色も皆すばらしい。
だけどおまけはいまいちなので、英語はさっぱりだけど、
US(クライテリオンだよ)で出てるおまけてんこもりDVDを輸入決定。
(字幕で英語を勉強じゃあ。)
パッション-最後の誘惑
サントラもいいけれど、映画もお勧めです。
ただこのサントラ以降、ここでの素材が以降のガブリエルの作品にかなり使いまわされているように思うのです。
だから悪いってわけはないのですけどね。
US、OVOを聞いていると特に。
最後の誘惑 [DVD]
たしかに公開当時は「衝撃の問題作」だったのでしょうが、もう干支が二周りもしてしまった現在見れば衝撃というほどの興奮はありません、
冒頭で「福音書に基づくものではない」と宣言され、あくまでも原作者やスコセッシの解釈によるイエス・キリスト像が描かれているわけですが、キリスト教の信者でない私のようなものが鑑賞する限りでは、磔になるまでの2時間の描写はいわゆるキリスト物語です、 普通の人として悩むイエスとユダの長い友情物語として鑑賞してしまいます、 この物語なら他の監督、例えばロン・ハワードのようなハリウッドの古典的な大作演出を引き継いでいる監督のほうがイエスを人として描きながらももっと神威を感じさせる傑作に仕上げたように思います、もっとも当時のロン・ハワードは本作を任されるほどにはなっていなかったが、
モロッコ・ロケーションとセットは贅沢の限りといっていいでしょう、CG無しの実際の美術セットと思えば面白さは倍増です、いまなら全部CG描写になってしまうので本作の質感は素晴らしい、 撮影も見事ですが残念ながら砂漠映像は「アラビアのロレンス」「シェルタリング・スカイ」ほどの綺麗さは無い(テーマが違うから仕方が無いが)、
個人的にはピーター・ガブリエルによる音楽が最高によい、ボイスとしてユッスー・ン・ドールも参加している、
自身の作品としては発表が難しいような売れ筋を意識しないガブリエル節が堪能できます、
デブラ・ウィンガーがマリア役で体中に彫り物されている、3年後に彼女は「シェルタリング・スカイ」でも同様の彫り物をされていたのは本作が下敷きだったということか?