大塚麻恵 秘密のデート DVD
久しぶりに、通しで、早送りもせず鑑賞しました。
どちらかというと地味な容姿,30歳という年齢とマイナスイメージばかりで、自分も最初は興味がなかったのですが、レビューの高さにつられて購入しました。
正直、感動した。彼女のイメージDVDに対する真摯な取り組みに。
不倫旅行という妄想系のストーリーに、粉雪のようなきれいな肌、隠すことのないシースルー越しのバストトップ、かわいらしい声。没頭するほどに彼女をどんどん可愛く感じてくる。
若いピチピチではないが、しっとりとした肌の美しさは、まさに欧米人があこがれる大和撫子の肌といえるだろう。
イメージDVDは全身で感じるもの、というモットーな私にとって、これほど感じたのは久しぶりであった。彼女は、カメラに対して演技をしているのではなく、カメラの向こうで鑑賞している我々に対して演技をしている。そしてその演技が自然。さすがに女優である。鑑賞している私は、その場に一緒にいる感じがするくらいイメージの中に没頭できた。久しぶりである。
ともすれば着エロになりかねない露出も、作品のつくりと彼女の品でオブラートにつつまれ、必然ともいえるストーリー展開となっている。
ヌードイメージDVDで品を持っている女優といえば、三浦敦子しか寡聞にして知らないのだが、三浦敦子が既に引退した今、その稀有なポジションを引き継げるのは彼女しかいないのではないだろうか。
最後の誘惑 [DVD]
キリストの奇跡が大仰に描かれすぎている。
私は聖書をを宗教的な本ではなく、読み物として読んだが、キリストの奇跡を起こす様子を尊大に描きすぎている。
内容は面白いが、奇跡を行うキリストの神秘性が基の聖書から失われすぎているのが残念。
パッション-最後の誘惑
ガブリエルの歌声は数曲でのコーラスまたはスキャット程度しか入っていない。
しかし重苦しい不穏なリズムと民族楽器の多用からなる中近東的なインストの数々は、聴く者を探求と理解への旅に連れて行く。苦悩との対峙と希望の発見の遍歴をたどる、モロにガブリエル節全開な単体のインスト作品として楽しめる傑作。映画を後で観たのだが、感情の高まりやラストの解放感は、まさにこの音楽から伝わる内容に近く、映像が後追いで作られたのかと見紛った。
個人的にはラスト2曲がお勧め。躍動感と神々しさに溢れていて感動する。
キリスト最後のこころみ
難解な文書はなく物語として十分理解出来ますがこの作品の意味を知るには聖書の知識が必要と感じます。
(自身は聖書を読んだ事がなく聖書を意訳したキリストの生涯を読んだ程度なので意味をどこまで理解できたかは不明です。)
大工の息子が神に選ばれ、人として生きようと神に抗(あらが)うがそれを許さぬ神。徐々に神の子の使命を受け入れるイエス。
(イエスの抗いは快楽への欲求にも触れています。)
神の子として人類の贖罪のため十字架にかけられるには人類の中でその人のみが経験しなければならない恐ろしい試練、闘い、綺麗事ではすまされないものが必ずある。
そうでなければならないという作者の思い、誰も知らぬ真実は何かを求める思いやイエスを敬愛する精神それらが作品のリアリティを生んでいると感じます。
十字架にかけられた後のイエスとキリキヤのタルソの律法学者パウロとの対話は圧巻でイエス磔刑以後のキリスト教の成り立ちへの痛烈な皮肉となっています。
聖書のキリスト像が心にある人にとってはキリスト教への冒涜と捉えられ映画化された作品の上映反対運動もあったそうです。
聖書のキリスト像が曖昧な自身にとってはイエス.キリスト(キリスト教ではなく)を賛美した名作だと思えます。
最後のイエス
なぜユダヤの議員ヨセフはイエスの遺体を引き取ったのか、公生涯以前のイエスの人生にはなにがあったのか、イエスの墓はなぜ空だったのか。
日本を代表するイエス研究者、佐藤研さん。けれども、この本には論文だけでなく、著者が「なぜ」「なにが」と想像力を働かせたフィクションが収められているところがユニークです。
論文にも佐藤さん独特の考察が見られます。ひとつは、イエスには「きわめて鋭敏な『罪性』意識があった」(p.45)という点です。「自分がこうした『乞食たち』やそれと類似の者たちの群れの中にいないことをどこか疼きとして感じ、社会的・職業的立場ゆえの〈負い目〉を敏感に感取したに違いない」(p.3)。
しかし、イエスは飛躍したと著者は言います。「自らの罪性に沈む自己の存在が実は『神の王国』によって無限に赦され、生かされるものとして把握された」 (p.47)。
ところで、近代のイエス研究者たちは「イエスを人間として扱いながらも、己のイエス像を徹底的に理想化することで、無意識的にではあれ、かつての『神』としてのイエスの後光を補填してきた」(p.126)と佐藤さんは指摘します。
イエスも人間として成長したはずであり、福音書にもそのプロセスがうかがえるが、それを無視して、そこに語られるイエスのあらゆる姿を無批判に良しとしてきのではないか、と言うのです。
たとえば、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(マタイ10:32)などには、威嚇やイエスの自己絶対化がうかがえます。
ところが、ゲツセマネ以降、これが姿を消すのです。「他を威嚇する態度も・・・他者へのあからさまな批判も自己弁明も・・・自己肥大化の言説も脱落している。イエスはただ孤独を貫き、沈黙を守り・・・この『最後のイエス』の姿こそ・・・これまでの自己の姿への訣別ではないか・・・これほどおそろしい『批判』の刃もない」(p.139)。